漏れ聞いた話によりますと、この「ボクラ共和国」という話はF先生自身があまり気に入っていなかった作品だったと語っていたコトがあるのだとか…。
まぁ確かに、決して悪い話では無いとは思うのですが…他の尖ったSF短編集の中に置かれると、微妙にぬら~とした印象を持つというか、そもそもSFである必然性がほぼ無いという…そんな話です。
原作ではボクラ共和国を設立した総理大臣が実は宇宙人だった…みたいなオチなのですが、「あぁ、そうなんですか…」というぐらいにしか思えないというか、宇宙人であったコトに何の意図があったのかが伝わり辛いトコロなのかもしれません。
あえて言うなら、「ボクラ共和国は国境どころか天体間すら越えられる!」だとか「ボクラ共和国という理想郷は、争い続ける地球人には作る事など出来ないのさ…」みたいな皮肉なのか…。
とまあ、そんなぬら~っとした原作なので(コラ)、ドラマ化にあたってどんなブラッシュアップをかけてくるのかと目を輝かせていたのですが…。
序盤以外、ほぼ違いますね(うわ)。
何だろう、下手になぞるより凄く清清しいです。しかも明らかにええ話になってるから尚更です。
ボクラ共和国というお題だけを使って、新たに良質なジュブナイルとして創造しているのですね。
そう、ジュブナイルですよ…。
正直、微妙にその意味は理解してないんですけど(ちょ)、今回のドラマの舞台がやたらグサグサ刺さります…。団地とか引越しとか秘密基地とか…。もお、匂いまで感じられそうなほどですよ。
まぁボクは実際に団地に住んだ事は無いんですけど、団地の多い地域に住んでいた事もあって、やたら郷愁感が募ります。あの団地コミュニティがねぇ…うんうん。
引越しの件で枕を濡らすのもやたら頷けるもんなぁ。そうそう、泣くよねぇ…て。
もうその時点でボクの中ではジュブナイルとして成立しきってもたーですよ。
大人の顔を一切映さないという演出によって「子どもの世界」を明確に作り出していた事も良かったですね。子どもの世界というのは本来大人の介入を許さない世界です。ですから大人をここまで明確に排除する演出を持ってして、やっと大人の視聴者は子どもの目線になってドラマに入る事が出来るのかもしれません。
「僕たちはケンカをしない。キレイゴトかもしれないけれど、それが僕たちの夢だから」
くそ! 何てイイ演説を!
ボクラ共和国の国民資格は「思いやりの心がある事」です。憲法には「ケンカをしない」と明記してあります。あくまで話し合いと多数決によってのみ問題を解決する。
ボクラ共和国の国会(集会所)が中学生によってメチャクチャにされた時も、総理は決して手を出す事はしなかった。
それは愚かな事なのかもしれない。でもそれは人の夢なのです。
大人は笑うのかもしれない。でも、だからこそこの言葉は子どもにしか言えない。
大人が言えば滑稽な言葉でも、子どもが言えば聞こえるコトもある。
だからボクラ共和国は子どもだけの国なのか…。
未来は明るいのかも。
でも同時に、大人の中にボクラ共和国が無いのだと思うと哀しくなりますね。
本当は大人の中にこそボクラ共和国は必要だというのに…。
うわぁ…ホントにイイ話になってるよ(え)。
てゆかさ…このドラマ、ほぼ不思議要素無くね?
まぁ原作がそもそもSFの必然性が無いので仕方ないといえば仕方の無いコトかもしれませんけどね。未来の自分に出会って…みたいなトコロだけですよね、不思議要素って。
アレも要るか要らないかで言ったら特に必要は無いとは思いますが(ちょ)、アレのおかげで何とか「パラレル・スペース」としての約束事を守った感も無くは無いですね。
そんなエクスキューズとか無くても素直に良質なジュブナイルでしたよ、マジで。
コレで一時間半の映画になっても全然ありだろうしなぁ。
よくぞまぁ、あの原作をこんな風に…ま、殆ど違う話ですけど(うわ)。
そんなこんなで全六話の「パラレル・スペース」。
SF異色短編集を、意外と豪華なキャストと尖がった監督の下でドラマ化とゆーコトで、時に楽しく、時に苦悶の表情を浮かべたりしながら観させて頂きました。
まぁクオリティとか面白さとかは置いておいてさ(え)、藤子・F・不二雄のSF短編集を実写のドラマで映像化しようという心意気や立派ですよ。だって、絶対お金かかるじゃん(うわ)。
それでも尚、その物語の魅力と尖った監督たちとの化学反応を作り出そうと思って頑張った人達が偉いですよ、うんうん。
実際その化学反応を見てみると、また原作自身の違った魅力も分かったりするワケで。
何やかんや楽しませて頂きました。
またこのような機会がある事を密かに期待させて頂きます。
よし、この調子で「T・Pぼん」も実写化しようぜ!
予算? 知らないね! 頑張ってピラミッド作れよ!(ちょ)
- 関連記事
-
コメント