巷では原作を読んでいると話の筋を知っているからアニメやドラマのレビューを書きづらいよね、という一説があるそうなんですが…ボクは「ドラえもん」もこのミニドラマシリーズも、いつも原作との比較でレビューを書いているだけに原作を読んでいない今回がやたら書きづらいというワナなんですが、これはどうしてくれるんでしょうか?(え)
てか、ボクの持っているSF短編集は廉価版のモノで、収録されていない話もそれなりに多いのではありますが、それでもそこに収録されていない「ボノム」とゆー話はSF短編の中でも結構にマイナーなタイトルなんですよね、きっと?
何故、よりによってそれをドラマ化するのかしらとも思いましたが、「人間は操り人形」というモチーフと「テレビドラマ」というジャンルが、メタフィクショナルな演出によって繋がり合うというコトが分かると、なるほどドラマ化した理由も頷けるような気がしますね。うむうむ。
これはSF短編によくある、神様系の話に位置するタイトル…ですよね。
にしても…ラストはちょっと怖いとはいえ、よく考えると「すこし不思議」な要素あったか?と思うぐらい地味目な作品です…。
タイムマシンも宇宙人も平行世界も出て来ないですし…。
とはいえ、その根底に流れるSFの血は濃いですね。
「人間の行動は性格と外界との反応によって起こった現象。人間の性格とは遺伝子と環境によって出来上がるモノ」
人の成す事は全て現象であり、人は人の形をした器に過ぎない…。
前回の「あいつのタイムマシン」では、結局において「思い」が全てを動かすのだと言っていましたが、今回はその「思い」なんてモノは本当は何処にも存在しないもだと言ってのけているような、そんな感じがします。
所詮、人の思いや感情だって脳内での電気信号の一つに過ぎず、この世の全てはただの科学的現象の一つでしかない。
そう考えれば何を腹の立てるコトがあろうか。
人吉さんはどんなコトをされても怒らず愚痴らず、ただただ底抜けにそれを受け止めればいいのだと言う。どんな悪意や裏切りも、全てただただ受け止める。
それは底抜けに広い心の成せる業なのか。
確かに人吉さんの心は「底抜け」に大きいです……けれど、「底抜け」というのは「空っぽ」てコトでもあるのです。
全部受け止めると人吉さんは言うけれど、底が無いモノで何かをすくう事や受け止める事など出来よう筈がありません。ただ現象だけが通り過ぎ、そこに思いなんてない。
それはただ人の形をした器だけ――
この世の全てを科学的現象として捉えるというのが如何にもSFってる話ですが、何だかやたらイイ人が凄く怖く見えるのが奇妙な所ですね。
とゆーか、やっぱり原作読んでいた方がドラマ自体の意図も読み易くて便利だと思いました。
これはつまりパーフェクト版を買いなさいというお告げなのかしら…いや、でもちょっと値段がさぁ(ブツブツ)。
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