お話は、プリキュアの記憶を奪う謎の怪物ミデンとの対決。
記憶を奪われたプリキュア諸氏は赤子の姿になってしまい、野乃さんはそのお世話に押しつぶされそうになる。
このミデンという敵役は、自分自身の記憶を持っておらず、そのためプリキュア諸氏の記憶を奪い取っていたのだと明かされます。
さらにその正体は、誰にも使われること無く、長年、箱の中に閉じ込められていたカメラであるとも分かる。一枚の写真も撮らずに生涯を終えた、その悔しさから怪物に具現化したのだと。
また、ミデンがプリキュアさんの記憶を一つに集めたことによって、プリキュアさん達の記憶が一つに繋がったのだと言及される。
そして、プリキュアの記憶を呼び起こす鍵は映画を見ていた観客達にあるというクライマックス…。
もうダメです…。
何処を切り取っても「仮面ライダーディケイド完結編」じゃないですか…。
コピー能力…記憶が無い…カメラ…繋がる記憶(世界)…復活におけるメタ構造…。
もはや、両者にはこの後MOVIE大戦に繋がるか否かぐらいの違いしかありません(過言)。
終始「ディケイド完結編じゃん…」とヨダレを啜りながら見ていたのですが、両者を同一のモノと仮定した時(は?)、「ディケイド完結編」が門矢士の視点の映画であったなら、こちらの映画はオール平成ライダー(プリキュア)視点で描かれた話になっている。
アプローチの異なる、別の角度からディケイドという作品を捉える為の映画なのだと分かる(分からない)。
…とまあ、そんなコトはさておき。
ある程度メタ視点を取り入れたクロスオーバーの記念作を作るとなると、必然似てくるのかなと感じました。クライマックスで第四の壁を超えてきた時は「そ、それは世界の破壊者ディケイドでも言わなかったお約束だぞ!(ネットムービー『スーパーヒーロー大変』より)」という台詞が脳裏を過ぎります。
しかし、もう10年もミラクルライトという第四の壁を壊すアイテムを使っているプリキュア映画だからこそのシーンなので、納得しやすい。というか数年に一回は壁を越えてくるので、珍しくもないのですが。
でまた、ミラクルライトはプリキュアの応援に使うという約束が形成されているので、「HUGプリ」のテーマにも自然と添いやすい。
作中における「応援」は、人と人の繋がりを表すモノでもあります。
応援する人、される人とがその行為によって繋がり、「一人ではない」と感じることで勇気が湧いてポテンシャルがアップする。
仲間が居る者は応援によって救われる。
では孤独な者に救済は無いのか? …というのはプリキュアという作品性にどうしても付きまとうカウンター。
野乃さんは、記憶が無いならこれから一緒に作っていけばよいのだと、ミデンのカメラで思い出を映す事にする。過去が無くても明るい未来を作ればよいと。
ミデンが記憶を奪った事によって結果的にプリキュアさん達と記憶が繋がって、ミデンとプリキュアさんとの繋がりが発生する。
失敗から明るい未来への糧に変化させるという、HUGプリのテーマ部分が出ております。
歴史に名も残らぬ無明の者…と思ってミデンを見てしまうので、その救済はまるで自分が救われたような気さえしてホッとする。
ミラクルライト。
作中で突如として現れますが、原理は明かされず。
ただ、今回ミラクルライトを手に入れているのはみんな赤ん坊になったプリキュアさんなのですよね。
「将来プリキュアになる子ども達の下にライトが現れる」と考えると、実際の映画館で子ども達がライトを手にしているコトがめちゃくちゃエモい仕掛けなのでは…と感じられる。
過去15年間ものシリーズの繋がりを見せつつ、さらに未来のプリキュアになる子ども達がそこに居る――という構造。
そう傍と気付いた瞬間、おっちゃんは「めちゃくちゃエモいやんけ」と感情が揺さぶられたのです(語彙力の低下)。
実際そういう狙いかどうかは分かりませんが、少なくともそれは映画館に行かないと発見できない構造だなと思います。
過去と未来のプリキュアが介する映画。
それは「プリキュア15作記念映画」という企画でありつつ、「HUGっと!プリキュア」のテーマをもメタ的に内包させて仕上げているわけです。
この企画、映画として出来るコト、期待されうるモノ、全部詰まっていたのではないかと感じられました。クライマックスのBGMなんか、「お前らこういうのがエエんやろ、そら!」という贅沢の極みですものね。
いやはや、ごちそうさまでありました。
ラブリーさんが良いコト言いながら残虐ファイトしてるの凄く好いです…。
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プリキュア 各話レビュー
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