2016年 07月 08日


先月末、「コンクリート・レボルティオ 超人幻想」が最終回を迎えました。
「楽しかった」の一言で終えてもよいのですが、シリーズを見ながら終始「これは俺の為のアニメだッ…!」と強い共感生を受け止めずにはおれない作品であり、色々と思考させるモノはツイッターで流す類でもなかったため、ここに記しておこうかなと思い立ちキーボードを打っています。

何故か作品論というよりは作家論の体裁も出てきましたが…、ご容赦を。


「コンクリート・レボルティオ(以下コンレボ)」は、実際に存在した昭和の歴史と、特撮・アニメ作品をモチーフに、架空の「神化」という時代を描いたお話です。

「テレビは時代の鑑」なんて言いますが、各時代における特撮・アニメにも時代性は色濃く表れています。
そこには必然、現実に起きた事件・事故などの事象が強く影響しています。

例えば、戦後から1970年代前半(昭和40年代後半)までのヒーローといえば、「月光仮面」「ウルトラマン」「仮面ライダー」といったヒーローは孤独・アウトローであることが当然であった時代から、1974年「秘密戦隊ゴレンジャー」ではチームで戦うヒーローが人気を博しました。
これは60年代まで反組織・反体制ということに正義を重ねていた時代から、70年代に入って「よど号ハイジャック事件」や「あさま山荘事件」が起きた影響から、反体制・アウトローに正義を重ねる企画が難しくなり、その振り戻りからチームで戦うヒーローという企画になったのではないか…という説がある(但しゴレンジャーは1話で組織が壊滅しているので、アウトローと組織モノの折衷案であるとも解釈できる)。

こういった「時代性の批評」はその手の本に幾らでも書いてあるわけですが、「コンレボ」というのは言わばこの「時代性の批評」それ自体を物語化しようと試みた作品です。

単純に正義を求める青年の物語として見てもいいし、何処かで見たことある超人たちの共演を祭りの如く楽しんでもいいし、現実の昭和という時代の批評として見てもいい。

とても多層的な楽しみ方が出来る、情報量の多い作品です。

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「疑似歴史」を描いているコトで思い返すと、コンレボ原作者である會川昇さんの作品にはこのスタイルが多いです。

といっても全てをチェックしているワケでもなく近作の事しか把握しきれませんが、「天保異聞 妖奇士」「大江戸ロケット」なんかは江戸時代の戦記物の装いがあり、「劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを往く者」では現実の第一次大戦後のドイツとフィクションの錬金術世界を交錯させ、「UN-GO」ではフィクションの「戦後」世界を用いて批評的に現実の「戦後」を描いている。「エウレカセブンAO」では沖縄の基地問題を別のモノに置き換える事で、やはり批評的側面が表れている。
また現実の歴史とはちょっと違いますが「仮面ライダーディケイド」では「平成ライダー」の歴史への批評をメタ的に盛り込むことで、やはりこのスタイルが活用されているといえる。

「コンレボ」は會川さんが綿々と描いてきたこのスタイルを、これまで以上に前面に、全面にプッシュした企画であるというのが見えてきます。


正義は人の数だけ存在する…なんてことは分かっているが、それでも正義の味方が、超人がいてほしいと信じる幻想。

それはある意味、漫画やアニメ、特撮に憧れてこじらせてしまっている人間への賛歌のようでもありましょうか。混沌とした世にあって、それでも光を求めて信じる者もいる。
そういう抗いの中にある光を描く事、これもまた會川さんらしいドラマが組み込まれておるなぁと感じました。

會川さんの描く善悪のドラマって、妙に「闇落ち」が多いなぁと感じておりました。

「ボウケンジャー」
ではチーフのライバルであったリュウオーンが元は人間であったとされていましたし、「ゴーオンジャー」でも暴走した大翔が心を取り戻すなんて話がありました。
「仮面ライダー剣」のラスト、主人公が怪人と同一の存在になるのも闇落ちの同種と言えるかもしれない。
ついでに「バディファイト」「ふたりはミルキィホームズ」でも闇落ち回を担当されていたのは、何か確信的なモノすら感じてしまいました…。

敵が闇落ちした存在だったり、味方が闇落ちしそうになるけど人間性を失わずに踏み止まる...そんな作劇が多いように僕は感じています。

このドラマのフォーマットからは、「善も悪も元々は同一の存在であり、その心の在りようによって人は超人にも怪人にもなれる」という事がテーマとして垣間見えます。
そういえば「ウィザード」特別編でも、「人はライダーになるか怪人になるかを選ぶことが出来る」というお話でしたっけね。
あれにもまた、このテーマが当てはまっているように感じる。

コンレボの世界は、「超人」と呼ばれるか「怪人」と呼ばれるかは、その時々の風向き次第で変化する混沌とした世界です。
だとしたら、結局「超人」と「怪人」を規定するモノなんて自分の心にしか無いのです。

爾郎は最終回で自分の事を「超人だ!」と認めます。
たとえそれが幻想であろうと、人は正義の味方に憧れる。
闇の中で足掻きながら光を掴む様は、これまたやはり會川節が強く感じられます。
第1期OPテーマ「カタラレズトモ」の歌詞を読み返すと、まさにその葛藤を歌っているんですよねぇ。

これが最後の作品になっても良いという意気込みで作った、とご本人も言っているだけあって、これまで各種作品で見てきた會川節を惜しみなく込めて、作家性純度の高い、ある種の集大成的な出来上がりになっているのです。

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ふむ…。

作品の面白さについて書こうと思っていたのに何故か作家の特徴を分析している記事になっているのはホンマ…何故だろう。

まぁ細々と面白かったコトを書いていくと、「これの元ネタはこれ」とか「ここでこのキャラが死ぬのは元ネタの人がこの時期に死んでいるからだ」とか、そんなことばかり書く羽目になってしまいますので…。

単純に、自分の大好きな「特撮」ネタや「メタフィクション」が詰まっている仕掛けに食いつかずにおれなかったというのが正直なところです。
とはいえ、ただ昔の作品をネタにしているというだけでなく、そこから視聴者側が思考し、掘り進める作業も含めて「コンレボ」の面白さは形成されているのではないでしょうか。

もー…なんというか、「『特撮』や『アニメ』をこじらせてしまっている俺の為の番組じゃん!」 と思わざるを得ませんよ、これは…。
実際、劇中に出て来る「こじらせた」キャラクターの数々を見るにつけ、三船敏郎ばりに「こいつは俺だ…!」と思ってしまうことの多い事多い事。あぁ、ずるい…。


日本で最も超人が多かったあの時代。
その多くは今や消え去ってしまいました。
最終回のラストで言っていた宇宙船団(「未知との遭遇」「スターウォーズ」「E.T.」といったハリウッド特撮映画)から日本超人への影響も大きかったでしょう…。

しかし、そんな中でもまだ生き続けている超人たちが確かにいる。

ジャガーさんのいた未来では超人がいないとの事ですが、我々は未来を選ぶことが出来るのです。

超人のいない未来。

超人のいる未来。


超人を信じる――

そんな子どもっぽい幻想で未来は変わるのだとして…


人はどちらを選ぶのか――。


 
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Tracked from ぬる~くまったりと at 2016-07-08 16:26
タイトル : コンクリート・レボルティオ TokyoMX(6/19)#24終
最終回 第24話 君はまだ歌えるか 神化53年 輝子と風郎太が新宿で待ち合わせ。 あの沖縄から2年が経過、街では既に過去の出来事として 何もなかったかのように毎日が過ぎていく。 神化51年沖縄で璽朗と超人の戦いが始まる。 笑美は妖怪たちに璽朗を守れと指令を発する。ヒカリナイトも璽朗を倒すことに参加する。天弓ナイトのおじさんを殺したから。久しぶりにエンジェルスターズが復活。負けると正義じゃなく...